「無駄」と「本質」との不思議な出会い~「無価値」が彩る創造的価値観
以前、とある美術館を訪れた際、不思議なことがありました。私はある1枚の作品に見入っていたのですが、突然、隣のフロアからけたたましくも奇妙な音がして、かなり驚かされました。
時間によって1日に数回、機械のように動く「生きた彫刻」で、廃物でできているとのことでした。普通、美術館に展示している作品が自動で動くことはありません。「動かない」と思っていたところに起こる、魅惑の裏切り行為。いつのときも価値の逆転とは、驚愕を伴って突如訪れるのです。
西洋美術の歴史をひも解いていきますと、後期印象派の画家は、絵画を「現実の再現」という「写実」の呪縛から解き放ち、「表現」という創作の段階へと昇華し、立体派の画家たちは画面に「もの」を貼り付けるという斬新さまで身につけました。「描く」から「つくる」へと価値が転倒した瞬間です。
学校現場でも、図工の教科書に廃材を使用した工作が登場し、子どもの感性を表現する新しい作品の指導が求められました。子どもたちは嬉々としてこの創作に没頭し、私のクラスの子どもたちは次々と新しい作品を生み出し、数々のコンクールに入選しました。
現在、家庭教師となった私は、小学生を受け持った際に、親御さんの了解を得て、廃材を利用した独自の工作指導をしています。例えば、ゲームやアニメで有名な動物を模したキャラクター、宇宙から飛来した巨人と戦う怪獣、ベルトで変身する正義のヒーローなどを子どもが設計図を書いて取り組む「オリジナル工作」は、これまでも好評を博してきました。
初めてコンクールに入賞し、喜ばれたケースもあります。勿論、「コンクールありき」、入選が目的ではありません。ですが、偶然もたらされたそのすばらしい結果が、その後の子どもさんの成績向上に大きく関わることになるのです。なぜでしょうか。わかりますか。
だって、勉強を教えて成績を上げる方が即効性があって成績が上がる気がしませんか。工作、つまり図工や美術なんて、入試や合格とは遠い次元の話だと思われがちですよね。それも無理はありません。
では、そのとき、賞をもらった子どもさんの心はどうでしょうか。学校、学年、学級で注目を浴び、ちょっとしたヒーロー、ヒロイン気分です。ご家庭でも額に賞状を入れて飾ってあげればさらに気持ちも盛り上がりますよね。
もとに戻りますが、賞をもらうことの一番の効用は、一体、何でしょうか。ズバリ「自信」なのです。自分に「自信」がつくと、誰でもやる気が出ます。難しいことや苦手なことにも挑戦しようとします。これが、成績アップにつながるのです。
実際、世界の絵画コンクールに入賞した子どもは地元のテレビ取材も受けて、その後、大いに自信をつけました。苦手意識の高かった算数を克服し高校で理系に進むと、無事に就職。今も社会でバリバリ活躍しています。
この仕事をしていますと、「苦手な教科」を上げるための苦役を強いらず、「得意教科」を伸ばすことで、不得意教科の成績が向上した例にも、たくさん出会っております。私たちは、ついつい、直接そのものに相対し直面するのが「王道」で、最短距離こそが最大の「近道」と考えてしまう。確かに、「教育」を「消費生活」という経済主体の観点から見れば、費用対効果が求められます。すべてを合理性や効率を重視した消費ビジネスと捉えれば、「まわり道」や「迂回」を選ぶ勇気は、現実的に持てないかもしれません。しかし、「経済活動」と同じ土俵で語られないことが「教育の実態」であり、「学びという本質」なのです。さあ、今こそ、「決断」すべきではありませんか。「無駄」こそが真の「価値」であることを。
私が子どものころ、近所の八百屋からくず野菜をもらい、格安で提供する老夫婦のラーメン店がありました。ラーメン180円、チャーハンが230円。一番高い五目焼きそばでも300円で、大盛りは30円増しというお得感。これもまた、「捨てる」ものを「使う」という、価値の「再創造」、ないしは「再生産行為」です。
私が学生のころの話なのですが、ここが近所の方々の「憩いの場」となっていたことは想像に難くありません。すごいですね。正に、「地産地消」。大げさに言えば、「地域創生」を既に体現していたんですよ。
郡山事務局 専属教師 村井 眞一